●海外レポート●

『旅情編』
という名の番外編

 

プロローグ
 入社1年目の私にチャンスが回ってきたのは昨年の5月半ばだったと記憶している。「インドに行ってきてくれないか」。「イ、インドですか?」。突然のトップの言葉に私は耳を疑った。聞けば日本石鹸洗剤工業組合が11月にインド、マレーシアへ視察研修に行くのだという。
 インドと言われても、具体的なイメージはほとんどなく、玉ネギみたいなかたちをした建物が有名だとか、最近IT産業を中心に急速な経済成長を遂げ、BRICsの一角を占めているだとか、その程度の一般的な情報を耳にしているだけだった。サラリーマンである以上、「すいません。よくわからないので行きたくないんですが・・・」という返事が許してもらえるはずもなく、答えは当然「ぜひ行かせて下さい」。かくして私のインド行きは決定したわけである。
 しかし、翌日から収集し始めたインドに関する情報は、私を暗い気持ちにさせるものばかりであった。「現地の水は絶対飲むな」、「想像を絶する暑さらしい」、「日本人を狙った詐欺が多発している」、「狂犬病を持つ犬がそこら中にいる」、「蚊に刺されたらデング熱が発生し帰らぬ人となる」等々。背筋が寒くなるような噂ばかりが目立つようになってきたのである。
 さらに追い打ちをかけたのが、7月に起きたムンバイでの列車爆破テロ。ムンバイはインド最大の商業都市として、我々の視察地としてもスケジュールに組み込まれており「優秀な人材が多く、高い経済成長率を誇る」というプラスのイメージは完全に崩されてしまった。残ったのは「本当に大丈夫なのだろうか」という不安だけ。しかし、そんな気持ちで愛する家族を残し、未知の国へ旅立つという経験も滅多にできるものではない。これからの人生において、絶対プラスになるはず、と自分を奮い立たせ、出発当日を迎えたのである。

日本で聞く様々な噂
 と、ここまで書いてきたように私の頭の中はほとんどインドのことで占められており、実は出発数日前までマレーシアにも訪れるということをすっかり忘れていた。忘れていたというより、意識の中になかったというほうが正しい。こんなことを言ったらマレーシア及びその国民にはたいへん申しわけないのだが、それだけインドという国の存在が大きかったということだろう。
 とにかく、日本国内でさまざまな噂を聞きイメージを膨らませることと、現地でその国の文化に直接触れ、風を感じることとはまるで違うもの。そこで、今回は両国を訪れた激動の8日間を振り返るとともに、私のように不安な気持ちでインドへ向かう人に少しでも良いアドバイスができればと思い、筆を執った。

【本紙記者=太田健一】

 

in マレーシア


幅広い人種に触れ
文化の違いを堪能

 マレーシアでは、首都クアラルンプールから空路で約50分のペナン島に3日間滞在した。南北24km、東西15km規模のこの島は「東洋の真珠」と謳われる世界有数のリゾート地で、アジアでもっとも長い13・5kmのペナンブリッジで本土とつながっている。マレーシアに住む人種はマレー系65%、中国系25%、インド系10%だが、ペナン島には中国系が多く、海鮮や麺類、飲茶といった中華料理を扱うレストラン、屋台が目に付く。宗教もイスラム教をはじめ、仏教、儒教、ヒンズー教など幅広く、島内には様々なスタイルのモスクや寺院、植民地時代の建物が数多く存在するほか、自由港として発展した中心街のジョージタウンでは、異国情緒あふれる町並みに出会うことができる。

文化の違いによる色彩への違和感
 花王の現地工場や大手プランテーション会社、IOIグループのアシッド・ケムなどを訪問し、視察の主要目的である「マレーシアの石鹸洗剤市場並びに高級アルコールなどの生産状況を調査する」を達成した我々は、3日目に島内を観光する機会に恵まれた。
 まず、向かったのはジョージタウンにある有名な寺院通り。中でも異彩を放っていたのが、一つの通りを挟んで向かい合っているタイ式とビルマ式の寺院だ。なるほど、がっしりとした本堂やそびえ立つ五重の塔は特別な存在感を示し、長い歴史や魅力を感じることができた。
 私がもっとも目を見張ったのは、そのカラフルな色合いである。言い換えれば、色彩感覚への強い違和感を覚えたのだ。日本の寺院といえば、おごそかな雰囲気を醸し出すシックなものが一般的だが、これらの寺院は、とにかく派手というか、ともすれば稚拙な感じに思えるほどのカラーリングが施されており、さらに、リアル感のない龍や麒麟の置物が門を守る姿には、いささか頭の中が「?」。とはいえ、一歩境内に足を踏み入れれば、タイ式の寺院には本堂いっぱいに横たわっている33mにも及ぶ寝釈迦像、ビルマ式の寺院には金色に輝く巨大な釈迦如来像やアジア各国の釈迦像が立ち並ぶなど、そのスケールには威厳を感じることができた。
 しかし、私が最も記憶に残っているのは、寺院内にいた現地の人間が、ある記念写真を我々に見せて悦に入っていた姿だ。彼は日本語で「ミタヒロコ、ミタヒロコ」と連呼していたのである。たしかにその写真には女優の三田寛子と旦那の歌舞伎俳優、中村橋之助が写っていたのだが、どう見てもその姿は10年近く前のもの。「どうだ、このお寺にあの有名女優が来たんだ。日本人のお前らなら当然知っているだろう」と言わんばかりにアピールする姿が何とも痛ましく、けなげであった。しかも、妙に笑顔を振りまくその姿の裏には「君らの写真も撮ってやろう」という魂胆があったらしい。もちろん有料である。
 境内で堂々と商売人が横行するあたり、威厳があるのかないのかは最後まで理解できなかった。

インドへの第一歩を経験
 その後、インド系の人種やお店などが集まる「インド街」を訪れた。この街でも私は激しい衝撃を受けることになる。それは街に一歩足を踏み入れた瞬間に、私の五感が訴えかけてきた「何かが違う」という警報だった。彼らの目つきや雰囲気、街の空気、においなどが今までのマレーシアとは明らかに違うのである。 
 言ってしまえば、それまでゆったりと流れていた時間を、経験したことのない殺伐とした雰囲気が吹き飛ばしてしまったのだ。未知の国インドに対する不安が余計にそういった感情を持たせてしまったのかもしれないが、そのときの印象が正しかったかどうかは後日判明することになる。

エキゾチックな雰囲気が
マレーシアの醍醐味か

 ペナンに到着した翌日、結団式を兼ねての食事会が島北部に位置するシーフードレストランで行われた。派手なネオンが特徴的なこの店は、高級ホテル街の一角にあり、アジア、ヨーロッパ、アメリカなど様々な旅行者で賑わっている。視察メンバーの中には数十年前にこの店を訪れたという人もおり、昔から現地の人間が接待の場としても使っていたようだ。確かに運ばれてきた料理はどれもこれも豪勢なものであったが、この店一番の売りは現地の踊り子たちによるダンスショーとのこと。
 いい気分で紹興酒を飲み干していると、突然アジアンチックな音楽が流れ出し、派手な衣装、顔立ちをした女性たちが登場。華麗なダンスを繰り広げ始めた。「なるほど、これが噂に聞くダンスショーか」と感心していたら、続いて登場したのはカルチャークラブの名曲『カーマは気まぐれ』が似合いそうな、<いかにも>な目をした男性たち。小気味良くステップを踏みながら、愛くるしい笑顔を振りまくその姿は、アルコールとはひと味ちがったほろ酔い気分を私に味合わせた。
 彼らはその後「みなさんもステージで一緒に踊りませんか」と会場内を総チェック。運良く(悪く?)壇上にエスコートされてしまった私は、彼らと共に見よう見まねのダンスをするはめになってしまったのだ。「異国の地でオカマちゃんたちと手を取り合うことになるとは…」と思いながらも、軽い汗をかきつつ、心地よく踊っている自分には驚かされた。しかし、以前にも訪れたメンバー曰く「10年前とやっていることは全然変わっていない」のだとか。踊り子たちも文化の伝承に余念がないということか。

日本からの移住が増加中
 どうやら、この島は2つの顔を持っているようである。
 一つは北部海岸を中心とした賑やかなビーチリゾートの顔。アジアらしい活気ある屋台街やトロピカルフルーツの露店、ゴルフにマリンスポーツなど幅広いアクティビティな魅力を持っている。
 もう一つは18世紀から英国極東貿易の拠点として繁栄してきたジョージタウンや、多民族を象徴する様々な寺院といったエキゾチックな顔。街そのものが大きなチャイナタウンのような感じだが、かつての大英帝国の繁栄を忍ばせる英国コロニアル建築が今も随所にその姿を残している。高層ビルが立ち並び、著しい近代化が進む首都クアラルンプールとは、ひと味もふた味も違う情緒を感じさせる街であった。
 また、中国系の人種が多いことや、セブンイレブンやジャスコといった日本でも馴染みの深い小売店が存在し、品揃えも国内とほぼ同じであることから、日本人でも違和感なくとけ込める雰囲気、環境がある。事実、定年後の人生をこの地で迎えようと移住する人が近年増えているそうだ。しかし、日本で言うところの健康保険はないので、病院での治療費は全部自費になるとのこと。現地のガイド曰く「ペナンは日本人が住む場所としても素晴らしいところです。身体が丈夫な方はぜひどうぞ」とのこと。

in インド

ついに未知の国上陸
眠らない街ムンバイ

 マレーシア・クアラルンプールから空路約5時間、ついに我々はインドの地に足を踏み入れることとなった。中国に次いで世界第2位の10億2880万人という人口、日本の9倍の329万烽フ国土面積、IT産業を中心とした急速な経済成長…。いやが上にも、この国に対する関心は高まって当然である。
 4日目の午後11時、ムンバイ空港に到着した我々をまず迎えたのは、なんとも言えぬ独特なニオイであった。各国には歴史や文化、国民の体臭などから、その国特有の香りがあると思うが、インドのそれは身体の隅々までをも刺激する危険な香りなのである。そのもとをたどってみると、諸々の外国人が発する体臭や、決して掃除が行き届いているとは言えないトイレといった実際のニオイもあったのだが、それ以上に五感が鳴らしていた警報は、見たこともない人種やふてぶてしいガードマンが夜遅い時間帯にも関わらず、そこかしこにいた光景へのものであった。しかも、空港内の電灯が薄暗いせいもあり、必然的に警戒心を高めることとなった。
 さらに、外に一歩出ると、出迎えのためか、大勢の人々がプラカードを持って、空港から出てきた人たちを待ち構えているのである。「この国はいったいどうなっているんだ?」と内心ビビリながらも、専用バスに乗り込んだのだが、空港でのインパクトはまだ序の口であったことを、ホテルまでの道中に思い知らされる。それは昼間のように街中で活動する無数の人々の姿であった。老若男女、仲間同士で遊んでいる者、家族でのんびり過ごしている者、笑っている者、寂しそうにしている者、道端に横たわっている者…、日本で言えば大晦日の晩の神社のような雰囲気である。街灯などがあまりなく、しかもインド人の肌の黒さも手伝ってか、異様な恐怖感が私を襲った。加えて、想像を絶するほどのタクシーの多さ。それはまるで、アリの行列を思わせるようだった。しかも、明確な交通ルールがなく、道路の舗装状況も悪いうえ、どの車が誰に発しているのか見当もつかないほどのけたたましいクラクションが鳴り響いているのだ。その姿はアリの行列どころか、まるでカラスの大群を連想させた。

街中とは別世界の高級ホテル。しかし安心するにはまだ早い?
 我々の宿泊先は、インド各地に系列ホテルを持つオベロイ・グループの「ジ オベロイ」。同グループ内ではもちろん、国内をも代表する最高級ホテルである。11階までの吹き抜けのロビーやガラスがふんだんに使用された内装などは、先ほどまでの光景とは明らかに別世界であった。
 騒々しいクラクションから逃れ、ホッと一息つけた我々であったが、インドという国はまだまだ緊張感からは解放してくれない。部屋のダブルブッキングといった信じられないミスのフォローや、パスポートのコピーといった単純作業に時間がかかり、なかなかルームキーが手渡されないのだ。しかも、ホテル側の人間に「申しわけございません」といった態度は微塵も感じられない。早く部屋で横になりたいと願う我々は、完全にイラつき始めていた。部屋に入ったら入ったで、消灯するための電気のスイッチが見当たらない。それらしきボタンを押してみたのだが、部屋は明るいまま。「どれが電気のスイッチなんだ・・・?」と悩んでいたら、「ピンポン」と部屋の呼び鈴がなるではないか。「こんな時間にいったい誰なんだ」と不安いっぱいな気持ちでドアを開けたら、ホテルのボーイがスマイルを浮かべながら英語で何やら話している。「何か用か。こちらには用はない」といった態度で彼を追い返したのだが、よくよく考えてみると先ほど押したボタンが、ボーイを呼ぶためのものだったのだ。「・・・明日からこんなことが続くのだろうか」、そんな気持ちでインド一日目が終了した。

発展途上の小売業
値下げ交渉は必須

 インド随一の国際貿易都市であるムンバイ(旧ボンベイ)は、現在1600万人余りの人口を抱えている。高層ビル、高級ホテルが立ち並び、スーツ姿のビジネスマンが多い一方、インド門や世界遺産のチャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅など伝統ある建築物も数多く立ち並ぶ。しかし、宗教的な思想の違いや、カースト制度、民族間による問題などがまだまだ残っており、路上生活を余儀なくされる人も多数存在するなど貧富の差は歴然。インドの歴史と混沌を凝縮した都市といえる。
 ムンバイ到着の翌日、我々がまず訪れたのは地元のショッピングモール。自由経済の進むインドだが、小売業の外資参入はまだ認めておらず、大型スーパーマーケットというものはほとんど見られない。地元の商店街か、単一のブランド店の集合体が主なものになる。我々が訪れた店舗もそうした集合体であったが、なんと開店時間を過ぎているにもかかわらず、すべての店舗が閉まっていたのだ。関係者によると、開店するのは正午過ぎとのこと。現地ガイドが「困ったなぁ。合わせる顔がないよぉ」といった表情を見せたのが何とも印象的だった。さらに、「気を取り直して、次に行ってみましょう」と違う店舗へ車を走らせたのが、なんとこちらもすべてがクローズ。現地ガイドは顔を引きつらせながら「インドでは、だいたいこんなものです」。

開店時間は一体いつ?
商品購入の交渉は慎重に

 その後、いわゆる地元の商店街へ足を向けた。貧富の差が激しく、富裕層の占める割合がまだまだ少ないインドでは、こういった趣の店舗が主流だそうで、現地ガイドもシャンプーや制汗剤のようなものを購入していた。なお、値札のようなものはほとんど貼られていない。しかし、一件だけ日本のコンビニエンスストアのような店舗で、ある商品に180ルピー(約468円)の値札が貼られていたのだが、驚いたことに、違う店舗で同じ商品を手に取ると、店員がその3〜5倍の金額を要求してきたのだ。聞けば、言い値の60〜70%で購入するのがインドでは通常なのだという。視察メンバーの中にはその交渉に失敗したのか、「はめられたぁ!」と叫ぶものもいた。

貧富の鮮明なコントラスト
押しの強い「営業マン」たち

 ムンバイの街を歩いていると、クリケットをやっている人がとても多いことに気がつく。しかも、平日の昼間から。私もさほどルールは知らないが、野球のように投手が投げたボールを打者が打ち返すということや、1試合に要する時間が7時間にも8時にも及ぶという話だけは聞いたことがあった。地元の人によれば、インドでは最も人気の高いスポーツだそうで、確かにテレビ中継されるクリケットの試合を何度も目にした。
 これまであまり見たことがないクリケットという競技に新鮮さを持った私だが、それ以上に鮮明だったのは、爽やかなシャツを着た人々が広大な敷地でクリケットに興じるすぐ横で、無数の路上生活者が暮らしていたことである。まったく別世界の人々が柵を一つ隔てて、同じ空間に居住する。そのコントラストがなんとも印象的であった。

観光地にひしめく行商人
 その後、要人の歓迎式典などに使用されてきたインド門を訪れたのだが、遠目から見る限り、黒山の人だかりができていて、「見物人が多いなぁ」と感心したのだが、実際近いてみると、カメラ片手に「どうだ、記念撮影しないか」と声を掛けくる者や、「この風船、買わない?」といったセールスマンもどきが大半であったのだ。記念撮影のほうは、「必要ありません」というまでもなく無視していればよかったのだが、たちが悪かったのが風船売りのほうで、我々の目の前に立ちふさがり、「買わない?ねぇ買わない?」とマンマークで着いてくるのである。さらに、視察メンバーの一人が「じゃあ、小さいやつなら」と購入した途端、「ビッグサイズも売ってやろう」と血眼になって大きい風船をアピールしてきたのだ。こういう見方をしたらいけないのかもしれないが、彼らも金を稼ぐのに必死なのである。
 さらに、お土産街のようなところを歩いていると、小さい太鼓をいくつも持った男が近づいてきた。その風貌から、直感的に「目を合わせてはいけない」と感じたのだが、その予感は的中。お決まりの「太鼓を買わないか」が始まったのである。
 しばらく無視をしていた我々だったが、インドの洗礼を受けたのはその数分後だった。突然その男が視察メンバーの一人にわざとぶつかり、太鼓を地面に落としたのである。そして「お前ら太鼓を割ったな!買い取れ!」と言い出したのだ。そのメンバーが言うには、確かに割れてはいたらしいが、割れるほどの勢いでその男も落としたわけではない。どうやら最初からの仕込みであったようなのだ。その男は一喝する我々の意をまったく介せず「割っただろ!買い取れ!」と言い続けながら、どこまでも、どこまでも着いてきたのだ。商魂たくましいとは、まさにこんなことを言うのだろうか。

ジャイプール、アグラで
日本との生活格差を痛感

 衝撃的だったムンバイに別れを告げ、次に我々が向かったのは、インド北部のジャイプールとアグラ。ともにインド有数の観光地である。ジャイプールは、ピンク色の建物が多いことから「ピンクシティ」とも呼ばれており、中でも有名なのが、当時のマハラジャ(王の中でも特に権力を持った王)によって造られた「風の宮殿」ハワー・マハル。この建物は、王妃をはじめとした女性たちが、夫以外の男性に顔を見られることなく外の景色を眺めるために造られたもので、透かし彫りされた造形はまるで映画のセットのようであった。
 アグラでは、世界遺産としても有名なタージ・マハルを訪問。多くの人がそう思うように私も「死ぬまでに一度は訪れてみたい」と思っていた場所である。噂に聞くその姿は、まるで一枚の絵のようで、白亜の大理石が上空のコバルトブルーと相まって絶妙なシルエットを構成。天空の城を思わせるようなその美しさは、声を出すのも忘れさせるほどだった。格調高きムガル帝国第5代皇帝(どなたかはよく存じ上げませんが…)の棺が保管されているということもあり、敷地内に入場する際のボディチェックも入念に行われ、男女別に設置されたゲートの前では屈強そうな男たちがにらみをきかせていた。
 しかし、ここでも一番印象に残っているのは、日本語で「これ1000円、全部で1000円」と連呼しながら、Tシャツやら木彫りの人形やらを強引に売りつけてくる物売りたちの姿だった。中には日本人の気を引こうと「ナマムギ、ナマゴメ、ナマタマゴ」と得意げに言いながらシェイクハンドを求めてくるものもおり、その営業姿勢には、建築物の壮大なスケールや歴史に触れた感動も一瞬で吹っ飛んでしまうほどのパワーが感じられた。

日本との差を感じる子どもたちの姿
 ジャイプールから230km離れたアグラへは、バスで約6時間かけて移動した。当然、道路舗装、交通ルールは整備されているはずもなく、激しいデコボコ道をクラクションが鳴り放しの中、まったりとしながらも、おちおち寝ていられないという厳しい時間を過ごしたのだ。そこで我々は、またもインドにおける新たな一面を見ることになる。ムンバイ、ジャイプールはある程度開発された大都市であったが、アグラへの道のりとなるインド北部は砂漠も多く、ラクダや牛、ヤギの群れは当たり前。一見、アフリカのサバンナ地帯を連想させるこの光景は、ムンバイの殺伐とした印象が強烈だっただけに、より一層、激しい印象を持たせた。 
 ここで私が不思議に思ったことが一つある。たくさんの子どもたちが原っぱで遊んでいるのをよく見かけたのだが(日本でいうところの「ハンカチ落とし」が流行っていたような気がする)、「この子たちはいったいどこに住んでいるんだろう」という疑問だ。遊んでいる子どもたちの数に対して、家屋があまりにも少ないのだ。あたり一面はだだっ広い荒野、ムンバイのように路上生活を送れるような場所もない。ということは、一つの家屋にたくさんの人間が住んでいるということなのだろうか。「そういえば、日本では無数の家が狭い敷地にひしめき合っているのに、最近外で遊ぶ子どもたちをめっきり見なくなったなぁ」。どちらが幸せなのかはわからないが、その国が抱える悲痛な問題点を浮き彫りにしたような光景であった。

〜あとがきにかえて〜

帰国後、約1カ月半が経った現在、「インドへまた行きたいか」と問われたら、私は間違いなく「イエス」と答えるだろう。滞在中はその喧噪な雰囲気に閉口させられ続けたが、あの情熱的な国の魅力は、時が経てば経つほど鮮明な記憶として蘇ってくる。現在、物が溢れた日本では、世知辛い事件、事故が多発している。耳を覆いたくなるような話を聞くたび、インドの「ピュア」な一面が、お金では買えない、忘れてしまっていた何かを、我々に思い出させてくれるような気がしてならないのだ。


 

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